束の間の肖像


        Portraits in a while


     ━━私とともに音楽を学ぶ若い音楽家に━━






スコット・ロスはエイズを病み、38歳で去っていきました。

http://www.geocities.jp/scottross_fan/biograph0.html

音楽家でした。クラブサンの名人でした。


彼が十代に音楽を学んだフランス、ニース音楽院は、古い貴族の館を校舎にし

ていました。庭に面した一階の部屋がコシュロー先生の学長室で、私たちギタ

ー、ハープ、クラブサンのクラスには三階の東の部屋があてられていました。



当時は各科学年に一人から三、四人の学生がいました。

学校全体の雰囲気は家族的で、学生も家族のようによりそって勉強していまし

た。髭と制服の立派な常駐の警官も皆から親しまれていました。

http://www.cnr-nice.org/images/conservatoire/paradiso_petit.jpg

私がこの音楽院で彼とほぼ同じ時期に学んだことを知る方達から、彼について

問われることが少なくありません。

しかし、私が日本からこの館に到着した時、彼は専門のニース音楽院のクラブ

サンのショーリアック先生クラブサンのクラスは卒業していて、和声や対位法

のクラスに時折姿を見せていただけでした。

学籍は・・今になって思うと、たぶんとりあえずパリ音楽院にあったのかもし

れません。彼には退屈なパリの生活からニースへと夜行電車に乗って頻繁に脱

出してきていたのだと思います。

それらの小さなクラスで私は彼と一緒でした。しかし、音楽の基礎に欠けてい

た十代の私は対位法の授業などにはついていけていませんでした。しかも、晩

年の彼についても知りません。ですから、彼について自慢げに語る資格はあり

ませんので話すことを躊躇うのです。彼の直接の師、ショーリアック先生が彼

について話してくださればよろしいのですが、そんなことは先生の生き方の節

度には反することでしょう。



 私は最近になって、ようやく彼の遺作「D.スカルラッティ全集」の全体を通

して数度聞いたのです。

CDにして三十四枚ですから、二週間ほど、時間があれば聞きいっていました。



私がなぜ今まで通しては聞いていなかったかと云いますと、一種の嫉妬

のようなものが、躊躇わせていたのだと思います。


 この録音作品は奇跡の作品としか例えようがありません、月並みの言い方で

すが。

作曲のD.スカルラッティ、演奏のスコット・ロス、録音し出版したエラートの

スタッフ、それを支える人たちの愛情と尊敬、すべてが奇跡の証です。しかも

自然にあるべくしてあった奇跡です。

 古代から人間がなにかのご褒美、または慰みに与えられた美と踊りの記憶、

一つずつは霞のようであっても、その数億年の昇華された記憶の無数の痕跡が

30時間ほどの演奏間に展開されます。

彼の録音を聴いていると、美は孤独だった、というあたりまえの真理にさえ涙

します。


 そのエラートの全集に付けられている解説本も過不足のないすばらしいもの

でした。

しかし、些細な間違いもありました。そのあたりのことを私が今語ることの弁

解にしたい、と思います。

スコット・ロスの音楽を育てたのは、ショーリアック先生、サォージャン先生

、ボーザン先生です。

 私もその三人の先生に学びました。

その頃の音楽学生や、私自身について話してみます。このような周辺のことは

鍵盤の上に載せられたスコット・ロスの大きな指の重みと、次に訪れる彼の動

作の瞬間の説明に必要な気がするからです。


 私は話しが下手なので、語る対象を音楽を勉強する私の生徒に限定します。


音楽用語の解説はしません。普段のふざけた物言いも控えることにします。


 申しましたように、今、話題にしたいのはスコット・ロスのテクニックです

一点についてだけお話できれば充分だと思っています。

それは、ジャックが弦に触れてから通り過ぎるまでの刹那のことです。

ジャックの位置では一ミリはあるのでしょうか? 鍵盤の位置では、それより

もほんの微かな感触(Touch)の瞬間です。

「そんな学者や評論家みたいなことは心の乞食にまかせればよい」。当時の同

窓の天才たちからそろって罵られるでしょうから、語りすすめることは気恥ず

かしさとの葛藤です。


 当時、ニースに勉強していた若い音楽家は皆一睡もせずに勉強していても、

けっしてそれを友人に悟られないように「夕べはモナコのディスコで徹夜で踊

ったぜ・・」と陳腐で見え透いた嘘で胸を張っていました

それは常套の嘘でしたので、それ以上は誰も問い返さない約束があったかのよ

うでした。もともと、隣町のモナコで遊べるほど裕福な者はいなかったのです


 スコット・ロスはエイズに病んだ現世の最期の生命を神と・・悪魔かもしれ

ませんが・・取引して、引き換えにD,スカルラッティのソナタ全曲555曲の録音

に成功しました。

 その頃、私は日本にもどっていて凡庸で無為な生活をしていました。その録

音の経過をなにも知りません。私は、自分の音楽の方向も見失い無駄な泡のよ

うな日々を暮らしていました。

 これらの555曲のソナタのひとつずつは、大聖堂を爆破しながらその石材が飛

び去る様から、聖堂を幻想のうちに再構築しえたソナタです。再構築するのは

聴衆です。目に見えるものしか見えない凡庸な聞き手には、全てのパッセージ

は砕け飛び散る石材にすぎません。


 D.スカルラッティのソナタにはどの瞬間をとっても同じ時間が流れています

時間が留まっているのではなくて、曲の始めの瞬間から、猛烈な速度で時間が

流れ去りながら、ほとんど同じ時間の位置のなかで曲は終ります。

 私にとってD.スカルラッティのソナタは「刹那」そのものです。

しかし、スコット・ロスにとってはそうではなかったのでしょう。

眼前に積まれた単なる楽譜の山。このマニュスクリプトは縦に積むことができ

ないほどの分量です。このモンセラートに誠実に挑むプロの登山家としての自

覚のみがあったのでしょう。

 彼は少年の日の目の輝き、ありのままを見据えることができる光りを宿した

目でもって、無邪気に楽譜の山を眺めていたのではないでしょうか。


 D.スカルラッティはスコット・ロスのように人生の最期の五年間にソナタ55

5曲書き残しました。以前には、私は作曲家として人間にできる仕事であるのか

どうかさえ訝っていました。

 D.スカルラッティのソナタは歴史的な名ピアニストだけが、聴くに耐える演

奏を残せました。ホロビッツ、リパッティ、ミケランジェリ、ハスキルなどで

す。

 彼らはそれぞれが数十曲ほどの録音を残せました。しかし、スコット・ロス

は同じ山道をまるで平坦であったかのように、登りつめました。音楽という真

理は暗黒を包む境界の薄い膜のうえにあります。演奏家は真理と暗黒との境界

ある薄い膜ににいて、暗黒の側に手を差し込んでは真理の側にもちだすことで

す。

スコット・ロスは誰よりもと軽々とそれをしているように聞こえます。

彼の奇跡の組成は、すべてが彼の心の中にあるものからなっていると思います

。言葉にすると単純な標語に過ぎません。

真理と真実を激しく求めた心。

並外れた努力。

モノにとらわれない勇気。

瞬間と衝動をとらえて同時に捨てる無心。

それに、なにか見えないものに対する愛です。


 D.スカルラッティ555曲のソナタ、どの一曲をとっても演奏家にとっては身を

削られる「試金石」です。

 演奏家にとっては、これらのソナタはどの作品も一音が発せられた瞬間に彼

の精神は丸裸にされ、つづく二つ目の音は他者、対峙する人間以外の存在の手

に委ねられない限り続けることができないような性質のものです。


 私が、今、皆さんに話そうとしているのはスコット・ロスの指についてのこ

とです。テクニックというほど広い範囲ではなくて、彼の指のことについて話

そうとしています。

 指が糸の張りを感じて通り過ぎるまでの百分の一秒ほどを解説するはずなの

です。しかし、そのためには周辺をぐるぐると回らないと本質には踏み込めな

いのです。指先が震えるような、数分の一ミリの動きは世俗では何の長さと同

じ価値なのでしょうか。


 すこしは具体的に話すように努力します。天才をもったクラブサン奏者が一

音を得るために木切れの鍵盤の端を圧します。他端に載せられたジャックは糸

に触れます。凡庸な演奏家にはそれは認識されるまでもなく、薄く薄く糸を擦

って貧弱な「音の死体」を生むだけです。「音の死体」、ある日の私が提出し

た和声法の課題にボーザン先生が評された判決でした。その日の私の課題はそ

のとおりで、疲れて書いたものでした。しかし、表面上はなんの間違いもない

のになぜ先生に喝破されたのか、いまだに不思議なことです。

 天才をもって途方もない努力をした演奏家のみが木切れの端が糸に触れて糸

を圧す瞬間を、刹那ではなく停まった時間として感じることができます。その

瞬間、クラブサンの箱の中の糸は1ミリも引っ張られているとは思えません。

時間の次元に換算すると人間が反応できる時間の単位ではないのでしょう。そ

れは人間の衝動の時間です。


 話しを戻します。ニース音楽院に着いた時、お話しましたように音楽院は今

の近代的な建物ではなくて、シミエ通りにあった立派な貴族の館でした。

(父のいなかった私が、豊かでない時代に留学できたのは、経済的な援助を

盛永宗興老師がくださり、ビザなどの保証人をロマンロランの翻訳者で詩人の

宮本正清先生が引き受けてくださったお蔭でした。)


パリにいるはずのスコット・ロスは私が出席していた対位法のサオージャン先

生のクラスによく出席していました。パリを嫌って多くの時間をクラブサンは

ニースのショーリアック先生とともに、

http://fr.wikipedia.org/wiki/Huguette_Grémy-Chauliac

和声学もニースのフィリップ・ボーザン先生に学ぶことを続けていたようです。

http://pierrephilippebauzin.free.fr/

コシュロー院長はパリのノートルダム寺院のオルガニストを兼任していました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_Cochereau#Bibliography

スコット・ロスもノートルダムのオルガンでコシュロー院長に聞いてもらった

のがきっかけで、ニースに呼ばれたらしい、とは聞いていました。

私が入学して三ヶ月ほど経た時、授業の査察(中央から査察官が授業を評価する

制度)がありました。一階の院長室で査察官である作曲家のシャルパンティエと

院長の前で演奏をしました。

 その査察時に16世紀のバッチェラーのアルマンとバッハのシャコンヌを弾き

ました。美しい庭に面した貴族の居間でした。演奏しながら、今までの自分と

はまるで違う自分が演奏しているとしか思えないほど悪くない演奏ができてし

まいました。

シャルパンティエが「君は何年生かね?」と尋ねました。返事に戸惑っていると

、コシュロー院長が「よし、次の卒業試験を受けたまえ!」と、この一言でも

って私は入学して6ヶ月後この学校を卒業することになりました。これは基礎

のできていなかった自分には、とても不都合なことでした。入学したばかりの

私は音楽を最初からやり直したく、一番の下のクラスから始めるつもりでした

。少なくともあと三年間はこの音楽院で学ぶつもりでしたから。


 院長はいつも仕立ての極めてよいベストとスーツを身に付けていました。し

かし、行動は突飛なものでした。私にはとても親切でした。院長室の前の階段

で見つかると、フレスコの天井をもった螺旋階段には不似合いな自動販売器に

「これを食べなくちゃダメだ!」とコインを入れてニッキの匂いの強烈な飴を


ふるまってくれました。迷惑でした。私には人間のたべものとは思えない代物

でした。この自動販売機には院長が好む不思議な食べ物だけが充填されていま

した。院長以外にそこで買い物をしている人がいた、という記憶はありません


 サォージャン先生の対位法のクラスでも私はまだヨチヨチ歩きだったのです

日本では実践のない机上の勉強をしていたのです。しかも、最初から七つすべ

てのクレ(音部記号)を使うことも初めての体験でした。弁解しても、実際には

なにもできない生徒だったのですが、学生が少なかったので皆が同じ一つのク

ラスにまとめられていました。

http://orgue06.free.fr/orgue06.html

スコット・ロスとサォージャン先生が即興実現している課題は私にはとてもつ

いていくことができないものでした。彼らはどんなやっかいな二重のフーガで

も即興できたのです。無能な私は先生から時折「おい、そこの観光客!」と呼

ばれていました。


スコット・ロスの伝記のなかではボーザン先生に比してサォージャン先生は、

音楽の天才に比べて人格の破綻があるように書かれています。しかし、私には

オルガンと和声学のボーザン先生のほうがはるかに奇妙な人格に見えました。



  ボーザン先生のオルガンの即興はいつも比類なく美しいものでした。港や旧

市街の教会で先生の演奏があるときは欠かさず聞きに行きました。どんな和声

もけっして鋭角をもたない、掛留音は違った次元の時間への糊代にしか聞こえ

ませんでした。先生の奇行については書かれている方があるので省略します。



サイトのなかにも少しの演奏の記録があります。また、ノエル・ギャロンの教

室には矢代秋雄先生の若い姿も発見できます。

 学生のボーザン先生への認識は「彼はパリ音楽院で記録的な数の分野で1位を

得たが、アルジェの戦争で頭を撃たれたのですこし変なのだ」というものでし

た。真偽はどうでもよいことです。

 先生との思い出には深い後悔もあります。ある日先生が「今、書いているギ

ターの曲だが、どうも一ヶ所具体的な和声にならないのだが」とたずねられま

した。今、思うと何を捨てても、先生についてその完成を手伝うべきだったの

です。しかし、私はそうしませんでした。なにか離せないことがあったにして

も、先生の作品表のなかでそれが未出版になっているのを発見し悔いています

 

 サォージャン先生がオルガンで演奏するバッハを何度も聴き何度も感動しま

した。音楽の構造がこんなにも美しいものか。人間にとって自らが生み出した

構造の正体はなんなのだろうか。彼の演奏はそこを私に問いかけていました。



 その頃の音楽院には天才の学生が多くいました。皆、私がたちうちできない

大きな才能の音楽家たちでした。

生活のすべてを音楽に捧げるのが普通のことで、毎日10時間以上の勉強がごく

普通のことでした。その部分だけは凡庸な私も真似ができました。


 コシュロー院長の音楽を私たち学生は高くは評価していませんでした。院長

は当時、大天才とされて尊敬を集めていました。しかもスコット・ロスや私も

個人的に恩義のある方にも関わらず、皆、辛辣な批評が常でした。音楽院ホー

ルのオルガンで時には一時間にも渡る彼の即興演奏の最中、客席で「そろそろ

破綻するぞ」というころには、学生同士がニタニタしながら膝をつつき合って

合図しあいました。

しかし、院長が亡くなって後にその演奏録音を聴くと、まぎれもなく価値のあ

るものだ、と知りました。学生の批判精神というのはそんなものなのでしょう



 朝市の立つリベラシオン広場に、古くくすんで美しい小さな鉄道終着駅があ

りました。国鉄のものではなくプロバンス鉄道という小さな汽車の終着駅です

。そのとても小さなオモチャのような汽車にのってニース市街をヴァー川に抜

けたところで下車して、ワインで有名なベレ方面の山に登ると、その中腹に向

かい合って二軒の家がありました。私はその一軒、マダムベストさんの別荘に

下宿しました。

ベストさんは八十歳を越した英国夫人でした。

私は毎朝6時、寝ぼけながら階段の手すりを伝って台所に降り、古いミルでコ

ーヒー豆を挽くのが日課でした。プジョーの古いミルの把っ手をガリガリ回し

て香りがたってくる頃にほんのすこし目覚めます。ベストおばあさまと手製の

ブラウンブレッドと庭の木になった実で作ったママレードの朝食をとり、その

食卓でそのまま和声と対位法の課題をそれぞれ3題ずつ解答を書きます。

授業のない日はベスト夫人につきあって山の中を散歩します。散歩といっても

2時間あまりの競歩のような速度でした。よく年老いた小さなお爺さんに出会

いました。不思議な抑揚で彼は「ボンジュール!」と挨拶しました。

 向かいにあるもう一軒の美しいプロバンスの伝統的な家は、私と同い年のギ

タリスト、クリスチャン・ラスキエと家族のものでした。クリスチャン、彼の

音楽の才能はすばらしいものでした。なにしろ、出会った時彼は音楽の勉強を

始めたばかりだったのです。最初は私が楽譜の読み方などを教えていたのです

が、対位法の成績ではすぐに彼に抜かれました。作曲でも一位を得たのは彼で

した。

http://www.christianrasquier.fr/discographie.htm

 人格も才能にふさわしい、尖ったものでした。数えきれないエピソードがあ

ります。進級や卒業試験は音楽院の小さいけれど立派なパイプオルガンのある

ホールで公開でおこなわれました。試験官は外部の音楽家達が二階席に陣取り

ます。彼は進級試験の際、その試験官たちが気に入らなかったらしく、採点用

紙をザワザワさせる審査員に向かって「うるさいから、出て行きたまえ!」と

一喝しました。

 クリスチャン・ラスキエと私は兄弟のようにして暮らしました。毎日一緒に

練習をし、山を歩きました。

私の下宿先の主人マダム・ベストは完全な菜食主義者でした。住んでいた別荘

は斜面に建てられていて、「ヴィラ・ミモザ」と称しました。住んでいるのは

、イギリスの老婦人とあやしい若い日本人、それに庭を管理するイタリアの老

夫婦でした。若い私はいつもかなりの空腹でした。クリスチャンの母上リスベ

トは毎週自宅の食事に呼んでくれました。父のピエロが自分で建てた家で、食

堂には美しいオリーブの一枚板の食卓がありました。リスベトの暖かさ愛情は

私にもクリスチャンにも同じように与えられました。当初、リスベトは息子と

私たち二人が卒業コンクールで競うことになりはしないか、気に病んでいまし

た。偶然、コシュロー院長のきまぐれで私が先にコンクールにでることになっ

たと知った時、リスベトは私を抱いて泣きながら喜んでくれました。

 クリスチャンの父、ピエロは寡黙でぶっきらぼうで粗野なプロバンスの男の

典型でした。彼はS.C.Iという災害救助隊のボランティアに全力を傾けていまし

た。災害があるとどんな危険な遠いところにでも自慢の装備を持ったシトロエ

ンのトラックバンで駆けつけます。彼の生き方は真似はできないが、私は強く

影響を受けました。

リスベトとピエロは夫婦そろって同じころに同じ病気になり、一昨年同じころ

に亡くなりました。

老婦人マダム・ベストも年の半分はインドの子供たちの介護にインドにでかけ

ていました。

 山の別荘は冬の夜は暖炉しか暖房がないので、暖炉の近くで練習します。マ

ダム・ベストの昔話の伴奏つきでした。夜の終わりにはいつも彼女が好む「ア

ルハンブラの思い出」を弾くことになっていました。彼女はなかなか辛辣の批

評家でした、悪い批評はいつも同じ一言「心がこもってない!」でした。

暖炉の薪は私が斧で用意します。燃すのはオリーブの木が好きでした。青い炎

であたたかいのです。


 スコット・ロスのクラブサンの先生だったショーリアック先生は彼の母親代

わりでもあったようです。そのころにはたぶん彼の実の母親は自殺していたよ

うな記憶があります。

先生はいつも美しい装いでした。たしか、マチスが亡くなったのと同じアパー

トにお住まいでした。

しかし、私たち学生は「マダム・タッパウェア」とあだ名していました。いつ

もその容器を皆に勧められるのですから。私たちは皆貧乏でしたからそんな容

器さえ必要のない生活でした。

 スコット・ロスが「私のテクニックはショーリアック先生のものとはちがう

が、全ては先生から授けられたものだ」といつも最大の敬愛を表明する人です


私は数度、クラブサンのタッチの手ほどきを先生から受けました。たった数度

の手ほどきが私を大きく進歩させました。その肝心の話しの前に、なぜそのよ

うな経験をすることになったのかについて、是非にお話したいことがあるので

す。

 時間は私が日本にいた高校生のころにもどります。私は白隠禅師・・バッハ

、スカルラッティ、ヘンデルとおなじ1685年の生誕です・・の賛、坐禅和讃に

触れて得度したい、と思いたち、妙心寺の塔頭大珠院で盛永宗興老師に私淑し

ました。大珠院の食事ももちろん完全な精進です。

貧乏でひもじい若い音楽学生を満たしてくれる救済システムが京都にはありま

した。

それは一種の音楽サロンです。そこで演奏するとステーキなどを振る舞われる

のです。僧堂からそれを狙って遠征するのは不埒なことですが、ひもじさには

勝てない年齢だったのです。

 私は、よく下賀茂の新宮春男先生のサロンにお世話になりました。先生はと

ても柔和な方でしたし、奥様も観音様のような美しさで、演奏の批評も率直に

厳しく語ってくださいました。

居心地のよいサロンでした。そこには、後のN響のコンサートマスターの堀正文

さんや、フルートのニース・フィルハーモニー主席の戸津清美などが出入りさ

せてもらっていました。新宮先生は京大の化学の教授でした。大珠院にはノー

ベル賞を得られた福井謙一先生がご夫妻で来られていました。福井先生と新宮

先生は一緒に研究されていたのだと、ずっと後に知りました。

 新宮家には雍子(ようこ)さんというお嬢様がおられました。重い病気を患っ

ておられて、透き通ってしまうような白さと細さでした。美しい方でした。五

十メートルほどの距離でもタクシーに乗らなくてはならない時があるほどの病

弱でした。高校にも行っておられなかったのではないか、と思います。

 雍子さんには音楽がありました。病気のなか、美しい歌曲を書き綴っておら

れました。今でも、彼女の作品は私の好きな歌で、不意に歌い出してしまいま

す。「ああ!花、色と匂いと輝きと・・」「木犀が匂うよ・・」・・・


 私のギターの師となるニース音楽院のドリニー先生夫妻が来日された折り、

私は新宮家にお願いしてドリニー先生夫妻を下鴨の新宮家に泊めていただいた

のです。それが縁で雍子さんのご両親はドリニー先生の勧めで、お嬢様をフラ

ンスに勉強にだすことを決心なさいました。

http://delcamp.net/liens/classical_guitar_duos.html

これは、傍目にもたいへんな決断でした。ご両親は日本にいても長くない命な

ら、好きな音楽を勉強しながら満足のうちに生を終えるほうがはるかに幸せで

はないか、と決心されたことだと思います。

ドリニー先生が身元引き受けをして、ニースに発たれました。新宮雍子さんは

年齢が私たちよりもずっと上でしたので、年齢制限で音楽院にはいることはで

きないものの、形は聴講生として普通の学生とおなじ扱いを受けられることに

なりました。当時院長の秘書であり現在の学長のペレーニュさんの取り計らい

も親切でした。

 どこの科目に入学するか、は難題でした。ピアノではとても体力が続かない

、でも理論だけではなくて音楽をしたい、との本人の希望で、クラブサンを選

択したのでした。彼女は今までの病弱の生を取り返すかのようによく勉強され

ました。当初はコンサートを聴きに行くことさえままならない体力でしたのに

、ときどきはコンサートにも行けるようになりました。クラブサンはショーリ

アック先生について習いました。その頃、クラブサンは注目もされていなくて

学生はとても少ないものでした。ショーリアック先生はすこし毛色のかわった

遠来の生徒をとても大切にしてくださっていました。新宮雍子さんは音楽に囲

まれる生活と南仏の風土が体に適合したのでしょうか、日増しに元気になって

いかれました。その後、普通の社会の判断でいうと早折されたのですが、私に

はそうは思えません。音楽の歴史を塗り替えるような大天才でなくとも、音楽

に囲まれ純粋に音楽に献身され、充実した生涯だったに違いありません。音楽

の神様は、スコット・ロスのような天才、新宮雍子さんのような献身の人、私

のような迷う凡人、誰にどんな席を用意してくださるのか。確かめる日も楽し

みです。


その新宮雍子さんは南仏で体と精神の健康を回復されるにつけ、私にもなかな

かきびしい叱責をくださいました。私がコンクールで成功が続いて天狗になっ

ていたとき「思い上がりは醜いですわよ!」とやられました。その通りでした

 ある日「あなたの演奏のアーティキュラシオンはメチャクチャですよ! シ

ョーリアック先生にお習いなさい!」

それで、にわか入門することになったのです。たぶんこの手ほどきについては

天才スコット・ロスと言えどもショーリアック先生の厳しさは私に対するのと

同じだったにちがいないと思います。


 私は数度のレッスンで「DO RE」という二音のみ、つまり片手の二本指の動作

のみ習いました。しかも、この体験は私の音楽を大きく変えました。

 最初の行程、鍵盤を超スローモーションで押し下げながら、音をださずに弦

の張力を感じ取る訓練でした。ギターは良いです、直接に弦に触れるので、ク

ラブサンよりは容易です。2時間に渡り音をださないレッスンはつらいものが

あります。僧堂の公案のレッスンのほうがまだしも楽しいものでした。

 二番目の行程、ひとつの鍵盤で糸の張力を変化させながら、振り抜く。ここ

で初めてひとつの音を発っすことを許されます。

毎回張力を指先に感じながら調整するのはやさしいことではありません。自慢

をしますと、私は撥弦楽器でもこの能力は高いほうだと思います、ですからな

んとかクリアできました。

 三番目の行程では、出た一音を20に細分化します。一音が「とーん」と出た

瞬間から、猛烈な速度で「1 2 3 4 5 6・・・」と20まで勘定しきるのです。

これは苦手でした。全長が一秒の音でしたら、0.05秒区切りとなります。

 四番目の行程は、三をしながら指定された数で指を抜くことです。10でぬけ

ば普通のスタカート、15で抜けばテヌートスタカートです。しかし、その間の

秒数も訓練します。

 五番目の行程では、「DO RE」の二音で上の三と四の行程を実践します。標準

のアーティキュレーションです。

 六番目の行程は、プラスのアーティキュレーション、二音間を負のアーティ

キュレーションだけではなく「糊代」を勘定しながら調整していく訓練です。



このとてつもなくきびしい修業の後「Do Re」という二音の演奏が許されるので

す。僧堂にちかい厳しいものでした。


 このトレーニングの模範がスコット・ロスです。どんなクラブサンからも、

まるでギターのようにフォルテピアノを生み出し、魔法のように旋律を浮かび

上がらせます。無駄な動きを一切排除しなくてはできないことばかりです。

ショーリアック先生はスコット・ロスよりはすこし高く手首を軽い定着感をも

って保持し強烈な速度で指を抜いていきました。テクニックというのはこんな

ものなのか!と感心しました。

当時の音楽院にあったクラブサンはモダン楽器でありましたし、しかもプレイ

エルのそれのような香りもないものでした。

どうしても濁った音が加わります。先生の圧力のかけ方で、そんな楽器でも美

しく鳴るのです。自然科学の世界で生が宿るかどうかの差、そんなものがある

としたらこの程度の差が全てをきめるのだろう、と思ったことでした。


 私の卒業試験は、リサイタルと協奏曲「ある貴紳のための幻想曲」でした。

試験のときは伴奏の名人マダム・サシエ先生が弾いてくださいました。これ以

上は望めないほどのビアノ伴奏でした。試験の最中でも伴奏の表現の美しさに

感動していました。審査員全員一致の一位でした(仲間では当たり前のことでし

た)。

オペラ座でのお披露目コンサートではサシエ先生の都合がわるくショーリアッ

ク先生が伴奏をしてくださいました。

私が一人で演奏するよりもはるかに楽に演奏できるほどすばらしい伴奏でした

馬鹿な私はこの演奏は自分の力だとしばらく勘違いして新宮雍子さんからまた

もや一喝されることとなったのです。



 私が音楽院のギターの部屋で勉強していたときのこと、学校のクラブサンの

部屋で練習していたはずの雍子さんが「西垣さん! あやしい

男が練習室から出て行かないの、何とかして!」と私がいたギターの部屋に飛

び込んで来ました。件のクラブサン室に行って見ると、確かにすこしは怪しい

が、貴族的な顔立ちの男が立っていました。

「いや、練習を聞いていただけです」と丁寧に謝罪しました。彼はフルートの

マクサンス・ラリュー先生でした。その後20年以上も経て私が彼の伴奏をする

ようになることは想像もしませんでした。


 私のソルフェージュは最初コシュロー院長の奥様のクラスにはいりました。


しかし、先生はたいへんなチェーンスモーカーで煙が耐えられずジャン先生の

クラスにうつりました。

私は入学してまもなく卒業ということになり必要なソルフェージュの単位に足

りていませんでした。親切なジャン先生が補講をしてくれました。彼は全身が

音楽のような人物でした。ピアノはどんな曲も美しく、すこし物足りなく弾く

、歌はどんな歌もうっとりするようなセレナーデに化けさせてしまう。

 ある夜、三階の教室で夜10時までジャン先生の特訓をしてもらったあと、螺

旋階段を降りていくと一階のピアノ室から不思議な音が聞こえました。それは


音というよりは空気に張られた膜のような感触でした。大きな木のドアをそっ


とあけて覗くと、五、六人の悪友たちがブルットナーのグランドピアノを囲ん

でいました。そのなかにはパリにいるはずのスコット・ロスもいました。鍵盤

の前にはピアノの学生で北アフリカからの留学生、シクシク君が座っていまし

た。エキゾチックな面立ちで褐色の肌、彼の感性にはまず「官能」があるので

はないかと疑うほどに、艶やかな世界をもったピアニストでした。

彼はジャン先生に「さっき、このショパンがわかったんです」とつぶやいて、

変イ短調のエチュードを弾き始めました。

これ以上にやわらかな気体は存在しない、というような音に部屋が満たされま

した。

私には聞いたこともないタイプの演奏でした。シクシクがエチュードを弾き終

えた時、ジャン先生は嗚咽しながらシクシクを抱きしめていました。


 そんなある日、ニースのオペラ座で私と親友のサックス奏者J.N君、ピアニス

トのG.R君がオペラ座のオーケストラの伴奏で協演することになりました。

イタリア系のG.Rと私はモナコのディスコテックでアルバイトをしていました。

彼がドラムをたたき、私はエレキのバスギターを担当しました。

ですから、夜通し練習していた連中が「昨夜はモナコのディスコで・・」と嘘

をついても、事実はわかっていたのです。

G.Rは私よりずっと年下なのですが、洗練されたマナーと二メートル近い長身、

深く彫られた美しい顔立ち、つい同級だと錯覚してしまいますがまだ十六才で

した。彼は打楽器で一位をとったあと、ビアノに転じてあっというまに強力な

テクニックでリストのコンチェルトまでも弾くようになりました。音楽院には

今世界的に活躍しているオリビエ・ギャルドンなどもいたのですが、シクシク

やG.Rはちがった個性でした。

そのオペラ座でのコンサートは楽しいものでした。J.N君はイベールの協奏曲、

G.Rはガーシュインのへ調の協奏曲、私はアランフェス協奏曲を弾きました。

当時、まだアランフェスは知られていない協奏曲でした。そこで、オーケスト

の調整はクリスチャンに頼みました。

 J.N君はノルマンジーからの学生で、彼の美しい音はサックスとわかっていて

も、初めての楽器を聞くような錯覚におちいるほどに、独特の質感をもってい

ました。私が知っていたサキソフォンの音色とは別物のガラスのような美しさ

でした。痩身の彼はノルマンジーの貴族らしい風貌でした。彼はジャムが好物

でした。女の子達からのプレゼントも手製のジャムの瓶詰めが多かったの

です。彼はその贈り物をもらうとその場で瓶からスプーンですくっていっきに

食べます。ジャムだけをです。奇妙な動物でした。食事の時間も勉強にはもっ

たいない、という主義でクラッカーをたべながら食事をせずに音楽を勉強をし

ていることが普通でした。

 残念ながらその後、J.Nは精神の安定を乱しました。G.Rも精神の制御ができ

なくなり演奏の舞台から消えました。悲しいことです。しかし、彼らの音楽は

私の記憶にあり続けます。

 高校生のころ、寺の茶礼の折り、私淑していた盛永宗興老師が「おい、きき

ますが、な、釈尊はな、友とともにあることは聖なる道のすべてである、とお

っしゃてられる。では、その友が犯罪者になったとき、お前はどうするかの?

」唐突に私に問われました。答えられませんでした。今は簡単に答えられます

。すこしは成長したのでしょうか。


 私がニースを去る日がちかづいた頃、音楽院に接して国立シャガール美術館

が開館しました。オープニングのパーティーで山の中のマダム・ベストと山を

散歩していたときにであって挨拶していた小柄な老人がシャガールだとわかり

ました。シャガールさえ知らない無教養な人間だったのです。


 時期がまたさかのぼります。新宮雍子さんが渡仏して最初の二年は自分のク

ラブサンを持っていませんでした。一フランが70円のころでしたから留学生に

は楽器は買えない価格だったのです。私もあまり上等でない日本製のギターを

使っていました、それしか知らないのですから良し悪しもわからないのです。

それを自慢げに製作の大家ブーシェさんにご覧にいれたこともありました。



http://www.shiozawa.net/

私は不器用な労力で協力することにしました。モンテベロの学生寮の集会室を

楽器製作室に占拠して、半年ほどで塩沢さんは仕上げました。

私はもっぱら接着の重しになったり、単純作業を手伝ったりしました。楽器製

作のまね事は私の音楽には勉強になりました。


 当時、私の音楽は、とても頑なにひとつのことにとらわれていました。それ

は「構造の表れない演奏はない」というものでした。聴衆に音色を褒められる

と自殺したくなるほど落ち込んでしまうのです。ドリニー先生には本当に迷惑

をかけました。先生が指摘されることは一応やってみせるのですが、すぐにそ

れを捨ててしまうのです。なんといっても自分のなかでは「形にとっては音色

は悪」だったのです。ひたすら自分のなかで形をつくることにこだわっていま

した。ポスト構造主義をもじって「最期の構造主義者」と揶揄されました

。先生は実に嫌な生徒を堪忍してくださいました。私のすこしの良い面は、与

えられた新曲は音楽院の帰りにプロバンス鉄道の駅に歩く途中か、駅の酒場で

暗譜しました。暗譜に二日かかった曲はないように思います。スコット・ロス

や他の同窓生も暗譜はたいしたものでした。しかし、サォージャン先生やボー

ザン先生は全てを暗譜していただけでなく限りない即興が自由だったので、学

生にとってはなんでもおぼえることは当たり前のことだったのです。

ドリニー先生ご夫妻から教えていただいたことは音楽の細部ではなくて、もっ

と本質と自然に生きることです。深い感謝があります。


 音楽院の先生には二つのタイプがありました。いつも立派な服を着てられる

方とそんなことには頓着のないかたです。前者は院長、ショーリアック先生、

ハープのフォンタン先生などです。後者はスコット・ロス、ボーザン先生、ド

リニー先生などです。

そのフォンタン先生の演奏はスコット・ロスもきっと良く聞いたことでしょう

。教室も一緒でしたから。

私が初めて彼女の演奏を聞いた時は、オーケストラとの協奏曲でラベルの序奏

とアレグロ、ドビッシーの神聖な舞曲と世俗の舞曲の演奏でした。それは素晴

らしいものでした。その演奏スタイルはしばらく私の模範となりました。後に

フォンタン先生とはずっと親しくしていただき、先生のCDもプロデュースでき

たのは幸いなことでした。

http://www.fauem.co.jp/CD/CDSHOUKAI/5026.html


 数年後パリ音楽院でメシアン先生のもとで勉強していた作曲家、福士則夫さ

んのギター作品の制作を手伝うために毎日行動をともにしていたことがありま

した。この日本の先輩の音楽からはニースの天才たちからとはちがった側面で

の影響を受けました。

自分の中にある音と言葉と外から与えられたものとを峻別する。

それは私には立ち戻れない世界で、そこから音楽をつくり出す姿勢に共感しま


す。

ある夜に新作品の形についての話しをパリのカフェで聞いて、タクシーに乗っ

たのは薄明の頃でした、とつぜんシトロエンのタクシーのフロントガラスが小

さな爆発音をたててクモの巣状にひび割れました。万華鏡のようにひび割れた

ガラスを通して駈け抜けるパリの夜明けの光りは美しいものでした。フォンタ

ン先生のコンサートのすべてが瞬時に映し出されました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/福士則夫

 一つの音を出すのはこのようなことなのだ、と感じました。

ガラスが割れる瞬間でなくてはならないし、同時にとてつもなく長い時間でな

くてはならない。



 私は小学生のころケブラーの三法則を知ったとき、なぜか強い衝撃を受けま

した。なぜ生きているのか、光りや時間があるのかを知りたい、と思いました

 こういうことを正直に話すのは気恥ずかしいものです。

しかし、このことは自縛の言葉の綱でもありました。

中学生になって土曜に授業が終わると学校のある大阪天王寺からそのまま生駒

の山に登って頂上の天文台の大きな反射望遠鏡で星雲を観測しながら徹夜をす

るという生活でした。高校生になって白隠禅師に接し、ゴールドベルグ変奏曲

のコンサートを聞いて「ここにいれば真実が見えるにちがいない」と今の道に

進みました。

二十歳になってはじめて、音楽と音楽のテクニックは表裏のものだ。そして、

音楽のテクニックというのは「弦」つまり「音」の張りの力を感じることのな

かに全てがあるのではないか、と気がついたのです。

スコット・ロスなどにはもっと幼い頃からの自明のことだったのでしょう。こ

れはテクニックだけではなくて音楽の本質だろう。そのごく短い時間と音楽そ

のものは同じではないにしても相似に近いような関係なのでしょう。

私はその実現のしかたを知らずに無為な時間を暮らしました。

 天才スコット・ロスは一途に進みました。

嘗ての「観光客」であった私も些細な録音をするようになりました。

http://www.fauem.co.jp/CD/CDSHOUKAI/5044.html

http://www.fauem.co.jp/CD/CDSHOUKAI/5047.html


当時の先生方や友人がつくらせてくれています。


ラモー、バッハなどの音楽の次元ではなく、音を生みたいという強烈な衝動は

子供の時のある体験に根ざすものが少なくないのではないでしょうか。

初めて一本の弦を震わせた瞬間、子供はすこしセンチメンタルで優しく虚しい

情感に包まれます。

空間がその音を吸収してしまう瞬間のはかなさが子供の心に杭を打つのです。


スコット・ロスのようにすぐれた音楽家は、その心の震えを決して失うことが

なかったのです。それが命の時間なのかもしれません。







                                                  西垣正信