CDのメーキング、演奏家の視点からの解説です。

ファウエム 5078 サンジャック教会コンサート


フランス語解説はこちらから 

この録音は2009年2010年夏、フランス アスプレモンの教会でのコンサートから
おもにスペイン近代のものを中心に集めました。生の録音ですので瑕疵はそのままです。


両年ともに前半はバッハのプログラムでした。
これはすでにフアウエム社でCDがありますので後半の近代のものを収録しました。

ブックレットの訂正
早速のブックレットの訂正で恐縮です。
日本語曲目では12曲目としてのタルレガ「遺作 エンデチャ オレムス」が抜けています。
タルレガのバレンシアでの写真について左から五人目をアルベニスと記していますが、
友人のカテウラ氏であるとの説が有力です。間違いの原因は、子供の時にこの人物をアルベニスだと思い込んでしまったことで、
検証しなかったことことです。正面からのいいわけです。反面そのまま信じていたかったという思いもあります。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
録音について・・ 
メインのマイクはサンケンの超小型マイク COS11を二本、極細のアルミパイプに仕込み、
バッテリアンプを介しました。
それらはコッフギターの間近に設置しました。もちろんオフにできればそのほうがよいのですが、
きわめて静かな環境といっても、突発的なノイズに対応をするためにはやむを得ないことです。
客席のノイズは客席に置いた四チャンネル録音機から採取したノイズをウェーブレットで
ギター近くに置かれた録音機の録音から波形をマイナスして「咳」やプログラムの「紙」の音を消そうとしてますが、
充分ではありません。もちろん演奏上のノイズなどはそのままです。
とりわけ紙の音は音楽を阻害するうえに除去が困難な性質でした。
単純に位相を反転して消せるノイズはこの会場にはほとんどないのです。
もともとモーターや電気製品とは無縁な会場ですし、録音の機材もすべてバッテリ駆動したので
電源にまつわるノイズからも解放されています。
実際の演奏では「火祭りの踊り」の最低音が頻繁に使われます。当日の調律はガット弦を長持ちさせる為に
半音低くされていますので、それは60hertzです。日本ではノイズが渦巻く周波数帯なのですが
まったくノイズのないこのちいさな教会では正弦波として収録できます。
空間の共振からかそれよりも低い音も雰囲気の音として収録できているのですが
一般のスピーカーに大きな負担をかける怖れがあるので、40hertz8デシベル下降のフィルターをかけています。
アンコールで演奏された「遺作」には大音量がないのでそれをそのままにしてあります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


再び演奏家から・・
この教会には十六世紀に改修された記録が柱に記されています。実際の建造はその数百年前中世だと推測できます。
村の中心に教会があり、周辺には自動車が入り込めないので静かなのです。
静寂は音楽家を一番元気にしてくれる薬です。
元国立ニース音楽院教授ドリニー先生ご夫妻や現教授たちが
毎回尽力してくれて市の主催で行われます。

この教会で弾くのは無上の喜びです(仏教徒の私にさえ)。
静寂と本当の聴衆。コンサートは午後9時から始まります。
演奏家の背後に背負ったうつくしいステンドグラスは
まだ光りを放ち、それが徐々に深いジョットーブルーになり最後には気配を消していく。人間の時間を光りでしりながら演奏を続けます。
音楽の虚飾や衒いを受け付けない素朴な空気に満ちています。
しかし、あまり多くの作品を弾けないのです、古い教会なので手洗いがないのです。



1. 賛歌「ドビッシーの墓」 ファリァ


1918年五十五歳で没した折、ルヴュ・ミュジカル 誌が別版として
ドビッシーを悼む作品を当時のファリァを含む十人の作曲家に委嘱したのです。
この人選、目がくらむといいますか、驚嘆するほかにないことですね。
人選をした人の眼力にも敬服しますし、こんな天才たちが同時期にいたことに興奮を覚えます。
この数倍の天才たちが精神を燃し続けていた時代、ルネッサンスにもこんなに
すごい時代はなかったでしょう。

1. ポール・デュカス
(訂正、前に「デュカ」と表記していました。作曲の福士則夫先輩から「矢代先生はデュカスと言ってられたよ」とのご指摘(感謝)
そうおもうと矢代先生とパリ音楽院で同窓だったボーザン先生も「デュカス」と言ってられました。
たぶん同時代人の発音が正しいと判断しました。なお料理のデュカスさんは綴りがちがいます)
2. アルベール・ルーセル
3. ジャン・フランチェスコ・マリピエロ
4. ユージン・グーセンズ
5. ベーラ・バルトーク
6. フローラン・シュミット
7. イーゴリ・ストラヴィンスキー
8. モーリス・ラヴェル
9. マヌエル・デ・ファリャ
10. エリック・サティ

ファリァによる「ドビッシーの墓」ドビッシーを讚えて、についてお話します。
この作品は二十世紀のスペイン音楽のもっとも大切な作品だと信じています。
最小のテーマ、ファとミの半音、つまり最少の音楽単位をハバネラのリズムに載せただけのもの。
明恵上人のうた「あかあかやあかあかあかや・・」と比べられるほどの簡素さ。
ハバネラの部分はドビッシーがアルハンブラ宮殿に触発された「リンダラージャ」が見え隠れします。
ファリァがその後に進む道の要素のすべてがこの作品に含まれています。
ドビッシーの作品「グラナダの夕べ」の断片をそのままコラージュし「ファ」と「ミ」の音が
死に絶えて小品も閉じられます。
この作品についてはオルガニスト故ピェール・コシュロー先生によるこの曲についての講演会も忘れられません、
オルガン版オーケストラ版ギター版
を対比しながらの講演でした。

ファリア唯一のギターのための作品です。ファリァは戦後も故国には帰らずに没しました。
そしてこの作品を校訂した大ギタリスト、リヨベットも内戦のなか無残な死をとげました。
無名の若きリヨベットを描いたルドンのデッサンを見る時にはいつもこの音楽が聞こえます。
ファリァ自身も内戦の最中親友であった詩人ガルシャ・ロルカが銃殺されたのを機に南米に亡命しました。




2. 月のひかり ドビッシー 編曲 西垣正信


元歌のヴェルレーヌを自分の勝手な意訳をすることが
ドビッシーを説明することと同じなので、言葉であるヴェルレーヌでもって話をします。

Clair de lune : Verlaine

Votre ame est un paysage choisi
Que vont charmant masques et bergamasques
Jouant du luth et dansant et quasi
Tristes sous leurs deguisements fantasques.

Tout en chantant sur le mode mineur
L'amour vainqueur et la vie opportune,
Ils n'ont pas l'air de croire a leur bonheur
Et leur chanson se mele au clair de lune,

Au calme clair de lune triste et beau,
Qui fait rever les oiseaux dans les arbres
Et sangloter d'extase les jets d'eau,
Les grands jets d'eau sveltes parmi les marbres.



ヴェルレーヌ 月のひかり (雅の宴 より)

あなたのこころは選ばれし絵
魅惑の仮面とベルガマスク
リュートを奏で、踊り
幻想の化粧の背後にながれる悲哀

短旋法で歌いながら
愛を得て、幸運な人生
幸運を信じていないようだ。
彼らの歌は月のひかりと交ざり合い

静謐な月のひかりの悲しみ、美しさ
それは森の鳥たちを・・・
(このQui fait rever les oiseaux dans les arbresは堀口大學さんの訳が正しいのでしょうか?
本質の部分なのでいつも疑問に感じます。音節の数を揃える為にこういう表現となったのでしょうか?)
官能の噴水を啜り泣かせ
大理石のなか大きな流れとなる

異論はあっても(無視をして)、ドビッシーの「月のひかり」はヴェルレーヌの「月のひかり」
の姉妹でしょう。
あまりに単純ですが、私は最初の音を発する瞬間からこの詩を口ずさみます。
そしてこのストーリーの通り音楽は進行します。音楽は詩と風景から一歩も外にはでない。
ただそこにある悲しみなのだから、そこからでる必要はないのです。

Votre ame est un paysage choisi
で最初の数秒が経過します。「絵」と言い切るのは無理が
あるかもしれないけれど・・この詩はワットーの作品がなければ存在しない、
タイトルの「雅の宴」はバッハの時代のフランスの画家ワットーの別名そのものでした。
月のひかりを媒介に意識の存在を問う詩がそのよりどころからはじまるのは自然でしょう。


シテールのたびたち(ドビッシーの喜びの島)、トリスタンと同じ近代芸術の祖先がそこにはあります。
仮面とベルガマスク、フォーレにも同名の舞台がありましたね、モナコで上演された。
マスク、仮面を被った人は仮面が命の本体なのか、肉体が本体なのか、命は仮面なのか、
肉体は仮面なのか、意識は仮面なのか、意識をすてられた肉体には命はないのか・・
そこをルドンは画集「夢の中で」で「葬儀の鐘を撞く仮面」でとして実現します。

「仮面の下の悲しみ」を見た月のひかり。
西行 心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ
「心なき」はヴェルレーヌのマスクとはちがって僧籍のことをいっているかもしれない。
しかし、言葉としてのちからはまだ残されていたのではないだろうか?
sur le mode mineur を単純に短調と訳すのはどうかな、そのまま
短旋法が正しいでしょう、ドビッシーもそのとおりのデッサンをします。
またフォーレもこの部分この瞬間に短調から短旋法(ドリア旋法)に転じます。


ドビッシーも同じ詩に基づく歌曲では同じ瞬間にドリアに近い旋法に転じます。
「リュートを奏で踊り」大學さんの訳では大胆に削られています。
しかし、この一行で皆はワットーのあの絵を思い描くでしょう、
それは今演奏している私自身の姿でもあります。
マスクの下にある悲しみ、それはすでに命を捨てたものかも知れないのに
マスクの命を透過して月のひかりは悲しみを見てしまう。
月のひかりの冷酷さ。森の鳥をさわがせ、噴水に官能を与える。

演奏を終った瞬間にあるのは定家に近いものかもしれない。
「雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる」

温度もない景色。 ヴェルレーヌにも定家にも残されたのは人の影ではなくて
官能も悲しみも意識もすべては透過されてしまって、ただただ冷たい「月のひかり」だけ
これらの詩を謳う代わりにドビッシーを弾きます。


3. マズルカ「アデリタ」 4. 5.「夢」 タルレガ


ここからはカタロニアの色が濃い音楽が続きます。
カタロニアには現代の日本人がコマーシャルで思うスペイン的な音楽やフラメンコなどは存在しません。
音楽でのカタロニアの特色の第一はその構成です。「三」にこだわるのです。
構造は絵画も音楽も「観音開き」、最初の部分真ん中の部分、そしてまたもとに戻って、一番素朴な
三部構成となります。これはけっして幼稚なのではなく彼らの信念と憧れそのものの形なのです。
その特色の第二は複調性です。本格的な複調があらわれるのにはさらに年月が必要なのですが、
カタロニアの文化に対象を多次元にながめる習慣があります。ピカソのキュービズムもカタロニアでは突飛なことではありません。
一見単純なタルレガの素朴なこれらの小品にもその萌芽があります。
係留音が解決せずに跳躍する様はフォーレを想起させますし、全音音程の下降には来るべきドビッシーの全音音階を垣間見ます。

カタロニアの人々はショパンを愛しました。ここを通過してのマジョルカ島への逃避行、マジョルカ島もまたカタロニアです。
嘗てマズルカのリズムを私が習いはじめた頃、たとえカタロニアマズルカであってもその実現はなかなか困難なことでした。
ピアノのフー・ツォン先生やフランソアの演奏を聞き続けた時期もありました。
マズルカ「夢」の転調はショパンのそれを圧縮したものです。タルレガによる「ショパンへのトンボー」なのでしょう。

トレモロ「夢」、この作品の形式はカタロニア風であることををすてて、タルレガがアラビア風を描く様式で作曲されています。
しかし、その内面ではこの「夢」はカタロニアの心そのものです。上に・・「天」に向かいたい精神。和声を捨てながら
天への憧れと不安、破綻しかける夢を描きます。この小品の心とカタロニア文化サクラダファミリアに教会にガウディが
描いたレリーフ「爆弾を抱えて敵に突入する少年」の無残な姿が重なって見えることがあります。


6. カディス アルベニス(編曲 タルレガ)

アルベニスの人生は19世紀の天才音楽家らしく謎に満ちたものです。
よく知られた逸話の多くは架空のもののようですが、それらの逸話はパガニーニのそれのように
示唆に満ちたもので、事実がかならずしも真実ではないかもしれません。多くのイベリアの芸術家のように
パリで活躍しドビッシーと親交し、フランスのピレネーで亡くなりました。
そしてカタロニア、バルセロナのユダヤ人墓地に埋葬されました。
アルベニスの「ご当地作品」にその風土がどれほど反映されているか、は多いに疑問です。
しかし、この作品「カディス」は私がカディスを訪れた折、目にする光りは「すでにこのアルベニスの小品よって見た風景」でした。
そこには格別な名所があるわけではないのですが、太陽と穏やかな海、アフリカに向かうフェリー、現代の都市が失ってしまった
穏やかさがあります。この地でマヌエル・デ・ファリァは生まれました。
穏やかな光りは時には鋭い光りよりも深く心を透過していきます。

7. 伝説 アルベニス(編曲 西垣正信)

放浪の天才アルベニスはこの作品を「伝説」として書きました。その後「アストリアス」というタイトルで別の組曲に転用しました。
ここでは「伝説」にもどしておきたいと思います。
この作品はカタロニアの三部構成です。しかし、驚かされる構造をもっています。
極めて単純なテーマがバール形式で示され、その積み重ねそのものもバール形式のままなんの展開も発展も
せずに構造だけが示されます。「アラベスク」そのものです。このような単純な構造はラヴェルの「ボレロ」に見られるだけです。
もっともラベルは舞踊曲の委嘱にさいしてアルベニスの作品をオーケストラ編曲で応えようとしたのですが
すでに編曲権はアルベニスの友人が持っていました。それで新たに作曲した実験的な作品があの「ボレロ」だったのです。
中間部の孤独の歌にはヨーロッパの和声も付けられずユニゾンで示されます。
短いコーダはアルベニスが書いたもっともうつくしいパッセージだと感じます。この数小節はアラビアの天使の歌なのです。
白状しなくてはならないことがすこしあります。後の火祭りの踊りでは極めて速いトリルの連続が要求されます。
その準備として指を用意する為に普通にギターで弾かれる編曲よりもアルペジョやトレモロの音の数一つずつ多く弾いています。
音楽の本質とは関係のないことです。

・・・
この作品の構造について興味を持たれる方の為にお話します。
全体はバール形式の「入れ子」の構造となっています。フラクタルというほど微塵には
音は構造上できないのですが、聞くもの、すくなくとも演奏するものには見えない聞こえないところまで
フラクタルであるかのような時間の経過を感じます。
かく単位、文節は徹底した脚韻と頭韻を踏みます。ヴェルレーヌの詩より厳格です。

ささいなことですが、最近中間部の歌にあらわれる装飾音を原典主義と称して
増音程で演奏するという不思議なことが行われています。
私は当然それには与しません、普通の感性に従うべきだと信じています。
たしかに装飾音はその瞬間の調整に規定されますが、カタロニアの音楽家は
もっと自由に処理をしました。同じ例はタルレガの「アルハンブラの想い出」にもあらわれます。
前半の終結ちかく「増五六」の和音上に与えられた装飾音は和声の昨日を脅かす増一度が指定され
増音程の装飾を避けています。これは指定されていなくても普通の感性ではこの帰結となるでしょう。


8. アラビア風狂詩曲  タルレガ

このタイトルがすべてを言い切っています。カタロニアの民はキリスト教による粛正が続く中も
多種の宗教が共存しえた地域でした。渾沌の現代にはひとつの雛形になる文化でした。
そのためにごく最近まで内戦の悲劇があったわけです。タルレガのイスラム文化への尊敬はとても深いものでした。
しかも、それを気分や流行ではなくピレネーの向こうにも分かるような作品を書き続けた。
カプリスというタイトルも本来の意味で使われています。
「勝手な構造」という弁解の意味ではなく古くからある本来の「堅い構造」の意味で使われています。
全体はヨーロッパ的な構成からは遠いものです。二度くりかえされる単純な序奏、たぶんそれは二度であっても三度であってもなにも違わない。
そして、たった四つの低音が全曲のオスティナートとなります。この作品は悠久の時間のなか何度くりかえしても、いつ終っても
曲の構造はかわらない、アラベスクに始点も終点もない。その文化への憧れを感じます。

9. アルハンブラの想い出  タルレガ

とても有名なタルレガのアラベスク作品です。イスラムの宮殿アルハンブラを描きます。タルレガはそれそのものを
一気に描きました。もちろんそのマニュスクリプトを見ると、書き直しのうちに彼がよりイスラムにちかづく様が見えます。
「ミ レ ド レ ミ」という単純な旋律の形を最後まで繰り返すアラベスクででき上がっています。
また調性も短調としては定まりません。全体の半分近くほ経過して調性の世界に戻ります。
解決しない係留を見せながら遠隔の調から瞬間に戻る様も「うつくしい」と感じます。
その結果、古典的なヨーロッパ和声を破壊しながら、ほとんど和声を捨てたコーダは来るべきファリァの「ドビッシーの墓」を思わせます。
アルハンブラ宮殿に触発された音楽にはアルベニスの「朱色の塔」や前出ドビッシーのハバネラ「リンダラージャ」があります。

10. 儚き人生の踊り ファリァ  編曲 西垣正信

カディスでうまれたこの大作曲家もスペインにはもどらなかった芸術家の一人です。
内省と推敲の作曲家です。ストラビンスキーと同じように生地を離れても普遍の光りを放ちます。
私的な話となりますが、この舞台はフランスのニースで初演されました。プレスティ・ラゴヤのギター二重奏の録音で接して
アンリ・アコ・ドリニーさんたちの二重奏による演奏を眼前での演奏に接するたびに「自分も弾いてみたい」という子供の要求を抱え続けていました。
一人のギターで演奏をするのは、次の「恋は魔術師の踊り」と同じように非常に困難なことでした。こどものようなトリックを考えついては実行して
このような形となりました。ファリァは最小限の要素だけで音楽を組み立てます。
無用な発展をせず極めて堅い建物を必要な材料だけで作り上げます。

11. 恋は魔術からの踊り「火祭りの踊り」 ファリァ 編曲 西垣正信


有名な作品ですが使われている「要素」は極めてすくないことに驚かされます。人間の欲望が高まりつづけて
浄化に分解されるまでを、ごくすくない要素だけで描きます。タルレガの前出の作品と完全におなじ「四音」の低音のオスティナート
のみで構造を支えます。タルレガやアルベニスはカタロニアの様式ではじまり、イスラムの香りを私小説的にその作品にとりいれました。
ファリァはバルトークやストラビンスキーの偉業のようにピレネーを小さな丘にしてしまいました。

これらファリァの作品の演奏には私の赤いコッフのギターにはつらい部分もあります。
なにしろフレットが足りないのでフレット無しに音を出す部分も多いのです。
同じような曲目をモダンの素晴らしいギター(平山照秋作)で演奏した簡素な動画があります。
演奏が楽なぶん、流暢なのですが聴衆に媚びた部分をきにいっていません。
ファリァではすこし武骨に抵抗をもって構造を指し示す役目が演奏家には与えられている、
と信じているからです。
モダンギターによる同曲の演奏動画
http://www.koube.jp/public/2011Shiga/2011OtsuTubuyaki.html
そして若いギタリストのためにこの二つの私の編曲も公開しておきます。
http://www.koube.jp/public/fallaguitsolopdf/fireDanceSoloSC.mus.pdf
http://www.koube.jp/public/fallaguitsolopdf/spanishdanceSoloGuitarSc.mus.pdf

12. エンデチャとオレムス 遺作(アンコール) タルレガ

タルレガ死の直前の小品と言われています。
悲しくも嬉しくもない、静かな音です。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
使用した糸は低弦は星野英範氏製作の真鍮巻
高音はフランスサバレス社のガット弦

音律はバロティ。
演奏後聴衆と



教会内





教会につづく村の道